2002.10.202004.12.13


社会の出来事


昭和12年(1937年)

★軍需ボーナスで個人消費一時的に刺激され
暮れから正月にかけ、大都市の人出はすごく、デパートでは商品が飛ぶように売れた。
中国と開戦するが政府や軍は「戦争」と言わず「事変」と言い続ける。
1・4 名古屋城の金の鯱のウロコ58枚盗まれる
7・7 蘆溝橋で日中両軍衝突 

日中戦争勃発
12・13日本軍南京占領

全国各地で千人針、慰問袋盛んになる。

★劇映画も短編映画も巻頭に「挙国一致」「銃後を守れ」のスポークタイトルを入れなければならなくなる。
9月に臨戦映画第一弾「暁の陸戦隊」らが封切り。
「愛国行進曲」10万枚売れる。「裏町人生」「人生の並木路」「妻恋道中」「流転」
「軍国の母」
★ラジオの広沢虎造の「次郎長外伝」が人気をよぶ。
「馬鹿は死ななきゃなおらない」

昭和13年(1938年)

★「国家総動員法」による統制経済体制がすすみ、日常生活は「ヤミ」に頼る部分が大きくなる。
戦闘は日本優位に展開され、何が何でも勝ち抜くと言う軍の宣伝の説得力を持つ。

1・3 女優岡田嘉子と杉本良吉樺太国境を越えてソ連へ逃避行
4・1 国家総動員法公布
4・10 灯火管制規制実施
★暗幕型の覆い笠、内側を黒く塗った電球が売り出される。
5.1 自動車のガソリンが切符制になる。
★”大陸の花嫁”大募集/満州の成年男子移住者6000名内4割が独身
「わらわし隊」落語家、漫才師による前線慰問団が出発
★”代用品”なるものが出回る「竹のスプーン」など

大陸ものが全盛
「満州娘」「支那の夜」「上海ブルース」「上海だより」「雨のブルース」「別れのブルース」
映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」
加納治五郎(柔道家・講道館創始者)死去

昭和14年(1939年)
日独伊三国同盟裏切られれ、ドイツがソ連と不可侵条約を結び、日本はロシアの脅威を感じつつ、中国での戦闘を一人で続けなければならず、国際的な孤立感が襲う。
政府は物価を凍結、一般物価、賃金、地代、家賃などを9/18現在の水準に凍結した。
これに伴い、各種の商品に”ヤミ価格”が付くようになる。
1・15 東京の地下鉄  浅草ー渋谷間全通
1・15 横綱双葉山七十連勝ストップ
2・16 満蒙国境ノモハン事件起きる。
6月 パーマネント廃止・遊興営業時間短縮・ネオン燈全廃
学生長髪禁止
7・15 国民徴用令実施

★技術者に出頭が命じられ合格者には「白紙の徴用令書」が手交され(徴用は白、徴兵はアカ紙)
出征兵士を見送る
8.23 独・ソ不可侵条約を結ぶ
10・1石油配給制となる。 
12・25 木炭配給制にとなる。

★隣組の強化・日常生活が隣組単位になり隣組に入らなければ生活出来なくなった。
東京市が「回覧板」10万枚配布

★男は全て国民服。カーキ色、五つボタン。強制ではないがこれを着ないと「非国民」あつかいされた。
「日本人なら贅沢はできない」
「愛染夜曲」「森の水車」「上海の花売り娘」「港シャンソン」「父よあなたは強かった」
泉 鏡花 死去

昭和15年(1940年)
軍の意にそまず一年で内閣交代が二度もあり、政党は無くなり、労働組合は解散
ベルリンで日独伊の三国同盟が調印される。
「ぜいたく警告」「贅沢品は敵だ」の立て看板がはりめぐらされる。
3・28 内務省 芸能人の外国名やふざけた芸名使用禁止ディックミネ等に改名指示。
英語は敵性語だと使用禁止
野球用語も「ストライク」は「よし1本」「アウト」は「ひけ」などと言われた。
タバコ改名「バット」は「金鵄」「チェリー」は「桜」
4・24 米、味噌、砂糖、醤油、マッチ等生活必需品が切符制度になる。
砂糖は一人一ヶ月に半斤、マッチは一日五本
6月 文部省・絶対音感教育採用
ドレミ階名唱法をハニホ音名唱法に改正
16年4月より実施
10・31 東京のダンスホールこの日で禁止
11・10 紀元二千六百年式典挙行
「金鵄あがつて15銭、はえある光30銭、いまこそきたるこの値上げ、紀元は二千六百年、ああ一億の民は泣く」 当時の煙草をもじっての歌
「あのねー、おっさん、わしゃ、かなわんよー」コメディアン高瀬実乗が流行らせる。
「新体制・臣道実践」「南進日本」「一億一心」ら政府の標語的発表

「誰か故郷を思わざる」「隣組」「蘇州夜曲」「湖畔の宿」
ベルリンオリンピック大会の記録映画・民族の祭典が小中学生の団体鑑覧もあり大成功 アメリカ映画「駅馬車」

昭和16年(1941年)
★日ソ中立条約がモスクワで調印される。アメリカは態度を硬化、日米交渉が始まるが日本側はただ強硬姿勢でのぞみ、
ついに決裂、対米英開戦になる。
3・1 国民学校令公布  小学校は国民学校と改称
4・1 東京・大阪で米の配給通帳制実施(大人一日二合五勺)
東京で煙草一人一箱売りとなる。
10.1 乗用車のガソリン使用が全面禁止
12・8 真珠湾奇襲攻撃
米英両国に宣戦布告
太平洋戦争に突入
12.8 気象報道(新聞・ラジオ)が禁止
アメリカ資産凍結
防空頭巾、モンペ、ゲートルの非常時服姿が急増
「月月火水木金金」

昭和17年(1942年)
戦線は東西南北に拡大、連戦連勝のニュースが国民を酔わせる。
この分なら「大東亜」に日本の支配が確立するのも時間の問題、と思っているうちに東京が空襲され、ミッドウエーで日本艦隊が負け、日本軍の後退が始まる。
1.2 マニラ占領
1・18 日・独・伊軍事協定調印 防共協定強化される。
2.15 シンガポール占領 「昭南島」と改称
1・20 衣料切符制実施
2・2 大日本婦人会結成
国防・連合婦人会などが統合される。
4・18 日本本土初空襲(B-25双発爆撃機)
     東京・川崎・名古屋・四日市・神戸
6・5 ミッドウェー海戦から戦局悪化
7.12 全国中等学校野球大会が中止となる。
10・13 全国デパートで売る物が無くなり売場縮小。

「欲しがりません勝までは」
「生めよ増やせよ」子供の多い家族をモデルとして厚生省が表彰した。

「勘太郎月夜唄」「南の花嫁さん」「お使いは自転車に乗って」
映画/「マレー戦記」封切り・緒戦の勝利に酔う国民が歓喜観客数600万人
与謝野晶子・北原白秋・死去

昭和18年(1943年)

★日本軍は各戦線で敗退に転じたが、報道が制限されていたので国民は事実を知らなかった。日に日に強まる生活の苦しさから厭戦気分が生じはじまる。ひたすら崩壊の途へ

1・13 ジャズレコード禁止
2・2 日本軍ガダルガナル島撤退 敗退を転進と大本営の発表
3・24 金属回収本部設置 家庭の鉄、鍋等の強制供出
お寺の鐘も供出される。
4・18 連合艦隊司令長官 山本五十六元帥戦死
5.29 アッツ島の守備隊2500人全滅(日本の敗北公表第一号)
6・1 東京周辺のゴルフ場畑となる。
6.25 学生の勤労動員が始まる。
9・4 上野動物園のライオンなど密かに毒殺される。
9.10 鳥取大地震 死者1083人、家屋全壊7400戸
9.22 軽労働17種(出改札・理髪・販売ら)男の就業禁止
12・1 第1回学徒出陣

「非国民」
戦争非協力者
「加藤隼戦闘機隊」「若鷲の歌」「新雪」「十三夜」
大原孫三郎(倉敷大原美術館)島崎藤村・徳田秋声・死去


生家は明治初期の時代からの煙草屋と雑貨屋で化粧品、薬、小間物を販売していました。
現在も四代目の甥が店を継ぎ営業しています。

私は昭和12年(1937年)に誕生しました。

 

父 母



2歳:家族と共に


一歳 三歳
当時はセイラー服が大流行していたそうです。
四歳
紀元二千六百年のお祭
五歳
南原にあった富士幼稚園に入学



左隣は近藤八百屋さん、右隣は田中屋食堂(昔人力車の停車場)でした。
裏には地主の松葉屋さんの土蔵の蔵があり、近所の家の共同便所もありました。

飛行機新道旭橋

交差点の坂の途中にあり左向かい側は飛行場(陸軍航空整備学校)への道で飛行機新道といわれ軍人さんが大勢往来していました。



陸軍航空整備学校正面入口・昭和13年

所沢飛行場にあった飛行機

毎朝起床ラッパや飛行機のエンジンの音を聞いて育ちました。

姉が大勢いたのでたばこ屋の看板娘として軍人さんに人気があったそうです。
親父が貸家を持っていましたので軍人さんが住んでいました。兵隊さんとよく遊びました。

漫画「のらくろ」のシリーズ物や「冒険だん吉」等をよく読み漫画を書いたりして兵隊さんや南洋の王様に憧れていました。

姉におぶさり本宿屋さんのショーウインドーのガラスに頭を打ち付けてもらっては喜んでいたようです。
度々引き付けを起こし姉達を慌てさせていたようです。
体があまり強くなかったのか思い出としては良く熱をだし医者が往診にきてくれた事を覚えています。
鍋屋横丁にあった田中医院、現在のヤマハ楽器の所にあった廣澤医院に通っていました。

父親が軍事関係に勤務していましたので母親が店を任されていました。

家のかもいにハンモックを吊ってもらって昼寝をしていました。
母親が着物を干す張り板を使っては滑り台をつくり遊んでいました。

御幸町駅

夕方になると母親に連れられて飛行機新道のガード際にあった
御幸町駅まで父を迎えにゆき、帰りにガラス細工の動物を買ってもらうのが楽しみでした。
駅は長い石段の上にあり待っている間は妹とジャンケンでチヨコレイト等と言いながら階段を上がる遊戯を楽しんでいました。
飛行機新道には模型飛行機屋さん、ウサギ屋さん、玩具屋さん、喜多川写真館、小川接骨院、柔道道場、荒物屋等
沢山のお店が並んでいました。

 
模型飛行機を作って貰いご機嫌な私幼稚園時代

坂稲荷

近所のお稲荷さん(坂稲荷)は幼い頃の遊び場でした。

石垣をよじ登ったり参道で石蹴り、階段で遊んだり、狐の造に跨ったり
お堂の周りには桜の木があり桜の時期は満開の花が咲き
花びらを針で刺し糸に通して首飾りを作ったりしていました。
夏には蝉が沢山いましたし、周辺の植え込みには大きななデンデン虫(カタツムリ)がいて幼虫から孵ったチョウチョも飛び交っていました。

映画館(演芸館)



家の斜前、坂稲荷前の横丁(横宿)を入ると所沢演芸館がありました。
横丁の入口には映画館のポスターが架けられていました。

昭和16年、紀元二千六百年の記念祭・坂稲荷前

歌舞伎座

近くの映画館(所沢演芸館・歌舞伎座)へ良く姉に連れられて映画を見にゆきました。
「踊る狸御殿」や嵐寛十郎の「鞍馬天狗」「丹下左膳」等を見ては手ぬぐいで変装してチャンバラごっこをして遊んでいました。

当時の映画館は2階に上がるときは下駄を脱ぎ下足札をもらってから一部畳敷きの席について見ていました。
ニュースでは必ず戦争の場面が出てきて日本軍の活躍が紹介されていました。

蓄音機とレコードがあったので歌も軍歌や姉達が唄う昔の歌謡曲等を唄っていました。

当時、レコード屋さんは元町の佐野屋文房具店の隣に全盛堂さんがただ一軒あっただけでした。






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