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三好野座



歌舞伎座



大正元年9月18日に行なわれた開座式の模様



芝居小屋としてスタートした小屋も大正後期には娯楽の王様「活動写真」が出現し
やがて活動館に変わって行き、無声映画時代からトーキ映画時代と移り、
経営者も小澤太郎氏に移り、戦後も多くの流行歌手や演芸家の実演も映画と共に興行され
多くの映画フアンで盛況でした。
昭和30年代に「所沢中央映画劇場」に改名、昭和57年に閉鎖されました。


絵画は故峯岸正雄さん著・「むかしのところざわ百景」より
宿場町であった所沢には古くから芝居小屋がありました。
明治6年6月(1873年)上町南裏(警察横丁・警察署跡・北の坂下)に小さな芝居小屋・「三好野亭」が誕生しました。
その後、代々名主だった倉片東吾氏が明治18年に増改築し、規模も大きく100人位は入れたそうです。
名前も三好野座と改名し、物日(盆・正月等)に興行し、主として歌舞伎狂言、時には人形芝居も行なわれていたそうです。
当時は興行は夜間のみで、客達は徳利に酒を入れて行き、ちびりちびり飲んでは、見物する者もいたそうです。
帰りは真っ暗な為、手に手に提灯を持って客は帰宅していたそうです。

この小屋は明治29年3月に大雪の為に倒壊してしまいました。
当時は前の坂道を「芝居横丁」と呼んでいたそうです。
その後暫く町には常設の小屋が無く、明治36年12月に所沢界隈の最大の雛人形問屋・「雛忠」二上忠蔵氏により、下仲町(寿町)の崖下にあった砂村稲荷を整地し、芝居小屋「雛沢座」が誕生しました。

歌舞伎座の誕生



その後下町(御幸町)の豪商・綿糸問屋・井筒屋の秋田伊三郎氏が譲り受け、木挽町にあった歌舞伎座をモデルにした舞台、花道、桝席、玄関等を改装し名称も「歌舞伎座」として大正元年に華々しくこけら落としをしました。
寿美蔵、延之丞その他名優大看板を迎え、初興行は三番嫂、仮名手本忠臣蔵の出し物だっあそうです。




芝居は月に5.6日で夜間興行のみで、初日には町の人力車に役者が乗り
町内を口上を述べながらビラをくばりました。
小屋には未だ電燈線は引かれていませんので、カーバライト・ガスによる照明で芝居は行われていました。
幕間には水菓子(果物)などが売られ、又、冬場には座布団のほか、火鉢も希望者には用意してありました。
旦那衆の中には見物に来ている「綺麗どころ」に寿しや水菓子を差し入れていた人もあった様です。
芝居小屋は唯一の社交場だったのでしょう。

昭和12年(1937)のポスター  昭和12年12月 出征軍人御家族銃後慰安 招待案内状

写真は昭和30年代の中央映画劇場入口前です。
散髪屋さんと魚屋さんの間の路地を入った正面にありました。








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