2002.7.12

故峯岸正雄さん著・「むかしのところざわ百景」より





明治時代、当時はまだ”舶来文化”のこの乗り物、自転車は”ガタクリ車”、”気ちがい車”と呼ばれ「二つの輪の物がまともに前に走るわけがあるめい」と人々は奇異な眼差で見ていました。
町内に初めて二上作次郎が専業として自転車屋を開業し
ました。
勿論、当時は舶来品ばかりの高級なもので、
店には2台〜3台くらいしか飾っていなかったようです。

セアス号、スペーシャル号、ヘーヤン号、イーグル号という
名で呼び、1台が70円、80円、「片手のマーク」左絵画参照で有名な英国製のラージ号は100円もしたそうです。

ちなみに、当時の所澤周辺の農村では、日料取りが「一両4人手間」と言い、1日働いて一人25銭くらいで、100円という金額は莫大な額で、分家の一軒も建つくらいの金額でした。
よほど物好きか金持ちでないと、買える物ではありませんでした。
二上氏は何とか自転車の販売かつ、普及させようと、デモストレーションに神明神社裏の“広っぱ“で自転車競走を行いました。
万国旗を飾り、花火を打ち上げ、物珍しさもあり、多くの見物客が集まり、当時あまり見た事もない派手な英語の入った赤や青のジャケットを着た若い自転車乗りにやんやの拍手がおくられました。
入賞者には新聞社や二上自転車店から優勝旗や賞品も贈られていました。

ほとんどの人が着物の時代だけに、若い自転車乗りは見物の若い女性達にとってはカッコ良い姿に映ったことでしょう。
その後、南倉庫(西武車庫跡地)裏で行なわれていましたが、まだ見るだけで、高嶺の花
だった様です。
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