2002・7・31〜2003.7.192004.12.12〜2008.4.14.




江戸名所絵図より








境内には




「新田義宗終焉の地」碑
康永年間(1342年〜1343年)

小手指が原等の合戦で足利尊氏に敗れた新田義宗はこの地に来て仮の僧侶お姿になり再起を期しましたがならず、そこで所持していた薬師如来を本尊としてこれを崇拝し、遁世して応永201413年)に亡くなりました。





所沢の民話



新田義宗の薬師如来にまつわる民話が伝承されています。

お聞き下さい。




江戸時代に江戸の六地蔵をはじめとして、各地に唐金の仏像が建てられました。所沢にも明和五年(1768年)に現・ダイエー前の二股の広場(検問所跡)に北向きに唐金製の子育て地蔵の大仏が建てられました。
坐像で高さは1.5メートル位あったそうです。

金佛様は薬王寺十世和尚登嶺祖仙によってに建てられました。
この辺りのシンボルとしてお参りで賑わい、時には有志により「祭り、縁日」も開かれていたそうです。
その後大正二年七月二日に道路拡幅のため薬王寺の境内に移されました。
戦争が激しくなると、「金属非常回収隊所沢組」と言う厳めしい名のもとに、弾丸になる為に供出されてしまいました。





東光山 曹洞宗 本尊:薬師如来

開基  (伝)新田吉宗が持仏の薬師如来を安置した。

新田義貞の子、新田義宗が開基と伝えられ、
義宗の守り本尊であった薬師如来をまつるといわれます

中興  慶長19年(1614年)永源寺第7世孝山大舜の隠居所とも言われています。
     臨済宗から曹洞宗に改められました。

寛永10年(1634年)以降21年、尾張徳川家の鷹狩の際の藩主の休泊所にもなりました。

慶応4年5月3日からの仁義隊がここ薬王寺に駐屯し附近を廻って軍用資金を集めたりしました。。





江戸後期の所沢女流俳人 三上理恵女の句碑、お墓があります。

むさし野にらちなく老いし柳かな



明治6年に所沢小学校が仮校舎として創立され、明治9年に西側に平屋一棟、
二階建て一棟を新築し、明治32年に、現在の所沢小学校が出来るまで、
使用されていました。





所沢町役場も昭和8年まで境内にありました。



  




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