2002.9.29〜2003.7.17




所澤宿略図・「秩父順拝図絵」国立公文書館内閣文庫

道路の中央に井戸が描かれています。









絵画は故峯岸正雄さん著・「むかしのところざわ百景」より

所沢には市の指定史跡として西所沢の弘法の三つ井戸が有名ですが、旧町にも上宿(元町・新むさし前)中宿(寿町・神田薬局前)下町(御幸町・あさひ銀行前)の三ヶ所に大井戸がありました。
町民はもとより三・八の市に集まる人々によって大いに利用されました。

この大井戸が掘られたのは寛永十六年()といわれ、井戸の直径は凡そ二メートル程で深さは水面まで十五間(二十七メートル)位はあったそうです。
その後個人や共同で井戸が掘られ、明治初期の頃は所沢宿全体で井戸の数も二十七、八ヶ所位になり、大正期には140〜150の井戸があったと言われいます。
寛永以来240年間続いた大井戸も明治20年9月に道路整備で埋め立てられました。

「所沢の火事は泥で消せ・可愛い娘は嫁にだすな」と言われたほど、所沢は水が乏しい町でした。
左側の絵は当時の水汲みの風景ですが、水の出が悪い所沢では、女衆の水汲みは大変な重労働でした。
それでも日常の水汲み仕事は当たり前のことで、近所の人々と顔を合わせたり、順番を待つ間にお喋りをする「井戸端会議」が楽しみだったそうです。

当時はどこの家にも大きな水瓶か樽が台所に置いてあり、手桶で運んだ水を大切に貯えていました。

風呂は井戸まで手桶を持って5,6回往復しなければ一杯にならないので、風呂は次の日も続けて使用し、又「もらい風呂」といってお互い近所の家で風呂に入れてもらい、お喋りをするのが楽しみでした。


所沢の井戸は深いので、両の腕に力を入れて太い縄で水をくみ上げるので重労働でした。
裕福な商家は「水汲人夫」にお金を払い頼む人もあり、夫婦で「水汲人夫」を稼業にしていた人もいたそうです。
釣瓶(つるべ)の縄はいつも水に濡れているので時々乾いた縄と交換して干しておき、三年に一度位は井戸かえが行なわれ、専門家の職人が中に入り、崩れた土砂やゴミなどをすくって手入れをしていました。
底からは小銭やかんざし、財布が出て来たそうです。「かんざし」は女衆が水を汲みにきて落としたものでしょう。

所沢に水道がひかれたのは昭和12年になってからです。
それまでは、共同の井戸を利用して生活していました。






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