2002.9.302011.7.16
ところざわの地名には歴史上、野老澤・所澤・處澤の三種が充てられています。
「野老澤」
野老澤の文字が最初に出てくるのは京都聖護院二十三代門跡道興准后(どうこうじゅご)の著した
「廻国雑記」です。
道興准后は身分の高い僧侶で室町時代の文明18年(1486)から十九年かけて関東を巡歴し、
文明18年の冬に野老澤に来て遊石山観音院(新光寺)に立ち寄り小憩した時に詠んだ歌の中に
「野老澤」がでてきます。
野遊のさかなに山の芋そえてほりもとめたる野老澤かな
「御岳神社奉納太刀」
所沢市元町の旧家・齋藤家(明治天皇行在所)の先祖である齋藤主計助(かずのすけ)信廣が
武勇祈願のために弘治4年(1558)に御岳神社に奉納した太刀にみることができます。
銘文は
奉納御岳権現剣 武州入東郡安松之村野老住人齋藤主計助信廣 弘治四年丁二月八日 正宗
「尾張藩主事蹟録抄」
尾張藩主大納言義直が寛永十年(1633)二月から同十七年十月まで鷹狩の為野老澤に六回来ています。
この時の事蹟録に次の様に記されています。(一部抄出)
寛永十年二月十八日 江戸殿様今日御鷹野野老澤江御泊り御鷹野へ成らせる
寛永十四年十月二拾一日 殿様今日野老澤江御鷹野成らせらる
★所沢での鷹狩では薬王寺が宿泊所として使用していたそうです。
「武蔵野話」
文化十二年(1815)に齋藤鶴磯により出版された「武蔵野話」の中にも野老澤がでてきます。(一部抄出)
野老澤村
江戸は天正文禄の頃(1573〜95)迄は鎌倉道の方、河原宿と本宿金山に家居せしが、・・・・
「實蔵院の棟札」
元町の實蔵院の棟札に見ることが出来ます。
實蔵院の山号「野老山」が野老澤の文字を後世まで伝えるものとして着目できます。
その他「新光寺の棟札」「江戸名所図会」等などにもみることができます。
野老澤の文字はこのように室町中期から江戸末期まで主に文芸や建碑などの意図的な表現上で四百年にわたり使用されてきましたが、
その間は「所澤」の文字は全く使われなかったわけではありません・
「所澤」
「笹井家文書」
所澤の文字は史料の上で最初に出てくるのは狭山市笹井の観音堂笹井家に伝わる天正七年(1579)に聖護院から下された
文書「聖護院門跡御教書」にみられます。
「所澤村市祭文」
寛永十六年(1639)十一月の所澤村市祭文書の末尾の世話役の連名のところにも「所澤」の文字をみることができます。
「新編武蔵野風土記稿」
この風土記稿は入間郡の部は文政三年(1820)に編纂されています。その中に所澤について記されています。
所澤村、安松郷吾妻庄に属すと云。古は野老澤と書けり。家数二百六十五、月毎に三八の日市を立てり。
「ところざわ・所澤」の文字も野老澤と平行して戦国時代から江戸時代そして現在へと、
公私を問わずその時と場合により使われてきたと思われます。
「處澤」
處澤は殆んど使われていなかった様ですが神明社の境内の招魂社前の手水鉢に刻まれています。
左面 伊勢講中 武州入間郡處澤邑
現在の「所澤」「所沢」に落ち着いたのは明治10年軍の参謀が地図上に使用する時に「所澤」に統一したそうです。
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