2002.10.6




絵画は故峯岸正雄さん著・「むかしのところざわ百景」より
昔は家屋も低く屋根といえば草屋根、檜皮(ひわだ)板屋根が多く、瓦は最も贅沢なもので、大きな商家しか使用出来ませんでした。
明治43年に飛行場が出来てから、新しい家屋が年々増えて旧町地区は農村地帯と違い家と家とが接近している所が多くなってきました。


所沢の町では昔から大きな火事が沢山ありました。

「所沢の火事は土で消せ」と言われた様に水は大変不自由な所でしたので、防火の必要から大正7年に県から全町千八百戸の内七百二十戸は改葺の必要があるとの条例が公布されました。
町内の家主は警察署に招集され、「向こう3年の間にトタンぶきにする様に」と命じられました。
当時は大通りからチョット入ると長屋が多く、大家さんもこれ等の家々を高価なトタンで全部葺き替えるのは大変でした。

当時は飛行場からガソリン缶が多量に放出され、町の業者によって一枚板に延ばしたものが、荒物屋などで売られていたそうです。
缶は12個で一坪(3.3平方メートル)になったそうですが、継ぎ目から雨が漏って屋根葺きの仕事も大変だった様です。

以来、大正末頃には「旧町」にはほとんど草屋根や
檜皮ぶきの家は無くなりました。

ちなみに所沢の蔵店の瓦のほとんどは小谷田(入間市)で焼かれたもので、檜皮の材料は青梅方面からの物が多かったそうです。

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