所沢市市定有形文化財/書跡

指定日:昭和44年(1969年)6月27日
所在地:所沢市・元町




建設当時の求友館の絵画
右門柱には
「川越鉄道株式会社
の看板が
掲げられています。




正面に掲げられている「求友館」の看板







昭和三十六年改築前



現在の求友館


勝海舟が「求友館」と揮毫したこの額は、
元町東町内会が管理している同町公民館に掲額されています。
この額は求友館に掲げられたもので、為書には「斎藤氏之嘱」とあり、勝海舟が求友会のメンバーである斎藤与惣次の求めに応じて揮毫したことが分かります。

求友館の由来

明治10年代を中心に地域住民の民主主義的要求の自由民権運動が全国的に高まりました。
所沢町では明治21年(1888)10月9日に上仲町の齋藤与惣次らの商人達有志が集い自由民権運動を旗印に町民の懇親、知識、学問を身につけ、時勢に乗り遅れないようにと「求友会」が結成され、
翌年明治2
2年(1889)2月17日、政治的活動の本拠地として「求友館」という名の集会場を建設しました。
求友会は齋藤与惣次、小澤綾助、倉片東吾、小澤久助らを幹事とした25名の結社で、時勢に乗り遅れないための学術研究が目的でしたが、求友館建築直後に所沢地域の政治結社「所沢倶楽部」の事務所が置かれ、政治運動の本部となりました。

政治上の集会場としての求友館の役割は明治25年頃まで続き、その後は町の集会所として広範囲の人々に貸し出され、上仲町の町内集会からも席料を収入とし、これを館の管理維持費に充てていました。

明治26年「求友会求友館雑誌」の活動記録によると鉄道敷設、神明社寄付金、鎮守祭礼、消防、献金、徴兵の件らに関する町内集会、所沢織物仲間集会、糠組合集会、糸繭商集会、酒造仲間集会、町会議、町商会、消防夫集会、所沢法律研究会、医師集会など多くの文化団体や事業団体に利用されていました。
その後は川越鉄道建設時の事務所にもなりました。

明治28年(1895)9月17日求友会会員、上仲町世話人による集会で求友館を求友会が上仲町に売却することが決定され、10月15日に建設費の半分以下の金300円で館は売却され上仲町町内会(現元町東町内会)の所有になりました。

その後、増築、改修を重ねながら現在は元町東公民館として今日まで多くの人達に利用されています。

町内会は求友館設立時の精神「懇親ヲ旨トシ少ナクトモ月一回会合、相互に知識ヲ交換シ益々幸福ヲ増進セシムル事ヲ目的トス」 を受け継ぎ、明治29年から毎月町内会の人々が寄り合い、関東大震災直後、戦中戦後の混乱の時代にも会合は途切れず継続されています。

現在、集合日を毎月十日と定め、「十日会」として町内会員が集い、親しく話し合い懇親を深め、年数回は講師を招き「卓話」を催し、幅広く知識を吸収し、教養を高めるために役たてています。

その後の求友館

明治二十八年十月十五日に求友会から求友館建物一式を上仲町が四百円で譲り受け、町内会共有財産となっている。町内会とは言うものの四百万円の資金調達にあたっては町内の有志の拠金によって出来たものである。

求友会なる組織は上仲町の人々の組織ではなく広く全町有志により結成されたもので、改めて上仲町住民だけの組織(町内有志又は関係者)が共有し運営をはじめました。

当初は敷地も現在の倍もあり、庭園も広く築山もあり、芝の土手で囲まれ、枝ぶりが良い松などが沢山あり、園遊会等も出来る結構なところであった。建物は上下で二十五坪の土蔵造りを本館とし、管理人室及び入口下屋の土間、便所等の付属建物を合わせて延べ三十五坪であった。

本館の他北側は厠の入口 東側は留守番室が改築直前まであった。二階は会議に、階下は半分は町内会重要品・山車の盛留め、昔からの町内文化財屏風、祭道具らの倉庫として使われいました。求友館は名の示す通り広く友を求める意味で、当時の所沢では唯一の集合場所であり、町内の有志が維持管理にあたり、会議の場所として、或いは囲碁、将棋らの娯楽の場として有効に使用され、現在の公民館の役割を果たしてきた所沢最古のものです。

明治から大正にかけて留守番・管理人として鉄砲打ち(狩猟)の道案内人として知られていた、大沢彌重郎と言う好々爺の人が永く住んでいた。

館内の有名人の書物らは殆ど齋藤与惣次の寄贈によるものです。

十日会の設定

大正時代には親交会、親友会等が出来、毎月十日を寄り日と定めて積立金をかね、話し合いをし、親睦を温めていた事は事実である。

大正十三年九月一日の関東大震災により、屋根瓦は崩れ落ち、各所に破損があったが修理部分にも永い間手をかけなかったので、大分美観もうすれてあった。

土地は大正十二年十一月石川某所有の土地が付近と共に分割分譲された際に町内会で現在の通り東西約九間、南北十八間、百五十坪余を買い受けた。その共有代表者、小澤久助、小澤綾助、深井浅右エ門、齋藤光三郎の四氏として登記され現在に至っている。但しこの四氏は町内会の当時の代表者で皆既に故人となっているので、書き換えをしていない。

昭和三十四年の伊勢湾台風によって屋根は飛ばされ外部壁は崩れ落ち、まことに見る影もない建物になってきた。昭和三十九年秋には町内有志の勤労奉仕によって二階広間の内部を少し改装したり、南の空き地に児童遊園地を設置しました。

尚、町内会は大東亜戦争終結によりマッカーサー米軍司令官により町内会は戦争に協力した団体として昭和二十二年五月三十日に解散、戦後の復興も進み昭和二十九年再び町内会が再建の議が起こり、小澤邦平氏が町内会長に選出されたが、それより先昭和二十五年に元幸町防犯街灯組合を組織して町内の活動が再び始まった。当時の小澤会長はこの求友館の改築の必要を説いて年々町内会計の中から若干の余剰金を改築積立金として年々別途に積立をしてきた。終戦後初代会長小澤邦平氏は約十年の永い間思惑的大変革時代の中にあって、よく難事業を克復して運営に当たってきましたが勇退され、続いて昭和三十九年には関口正次氏が町内会長に選ばれ、町内会財政建直しのために会員の賛同のもとに町内会費が改正され、この積立金も増額され、昭和四十五年度末には累計百三十八万円となっていた。これにより、大改築案の議が本格的に有志の間で起こり、数度の会議で検討、話し合いがおこなわれ昭和四十六年六月五日総会に於いて大改築案が決定、七月着工、十一月落成し、現在の面目一新した求友館になりました。

関口正次氏求友館由来記より抜粋

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