2003.8.7 2010.5.3.




坂稲荷の真向かいの細い路地は横宿と呼ばれる横丁で昔は坂稲荷の参道でした。
富岡地区の人達は曾根の坂を通り鳥居橋を渡りこの横丁からマチ場にやって来たそうです。
横宿の道は飛行機新道が出来るまでは飛行場へ飛行機を運ぶのに牛車でこの細い道を通って運んでいたそうです。

所沢演芸館で映画を見る時は皆この横丁を入って行き映画やお芝居を楽しみました。
私も姉達に連れられてチャンバラ映画を沢山観ていました。
成人になってからもオールナイトのサービス映画をよく観ていました。。

横宿の入口(現・とんかつ屋さん)に戦後間もない頃に所沢では初めてのパチンコ屋さんが出来ました。
当時ラジオ番組で「二十の扉」と云うクイズ番組があり、これにちなんだ台があり上のポケットに玉が入ると扉が開き20個の玉が出てきました。
こちらのお店では店先で雷魚釣りも出来ました。この家は明治時代は本屋さん(書肆)でした。
横宿を入った右側の井関燃料店さんは以前は提灯屋さんでした。

挿し絵:峰岸正雄「むかしのところざわ百景」より

前には深い井戸があり、町に水道がひかれていない頃は近所の家の共同井戸として利用されていました。
私の一番上の姉が子供頃はここえ水汲みにゆくのが日課だったそうです。
昭和12年に町に水道がひかれましたが、所沢の水は井戸水でしたので美味しい水でした。

お隣には道に沿って樫の木が立ち並んでいた狭山旅館がありました。
所沢の三八市や界隈のお祭らに出店する人や飛行場にいる兵隊さんの家族が面会に来た時に利用していました。
左側に倉庫がありました。
これは長嶋金物屋さんが所沢で初めてハイヤーの営業をした時の倉庫で、
大正時代の所沢織物の全盛期に湖月縮の宣伝に竹久夢二に依頼し絵葉書を作成しました。
この時に夢二がハイヤーに乗り町の見学の後に料亭・婦多佳美で宴を催したそうです。
当時三台ほどあったそうです。
後にここで盃横丁にあるACBのお父さんがパチンコ屋を営業していました。



横宿の奥の左側には立派な蔵造りの家があります。港屋さんと言う元は質屋さんでした。



左:三上信次画伯 右:峰岸正雄「むかしのところざわ百景」より

東川にかかっている橋が鳥居橋です。
橋のたもとに小さな社があり鳥居があったのでこう呼ばれています。東川際には下宿屋さんがありました。
戦時中所沢飛行場にいた兵隊さんが住んでいました。



昭和40年代の鳥居橋

鳥居橋を渡った家具屋さんの裏の方がが火事になった事がありました。


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