2003.5.31~2004.12.12


  

昭和14年・本宿屋前   右山田呉服店前・昭和21年頃

子供の頃は表通り(おもてどうり)と呼び、町のメインストリートでした。
銀座商店街と呼ぶ様になったのは確か昭和24年頃だったと思います。
坂稲荷から元幸町(前は本町・元町と分かれていました。)には沢山の商店が立ち並んでいました。
商店街のお店には同級生が沢山いましたが、今ではお会い出来る人は居ません。殆ど店を閉めるか、他所に住んでいます。

現在のスカイライズタワーの所に大きな魚屋・鈴清さんがありました。町の魚屋さんは、毎朝こちらから魚を仕入れて手車に積んで運んでいました。又、浦町には青物市場があり、町の八百屋さんはこちらから毎朝仕入れてリヤカーで運んでいました。
町には八百屋さんや魚屋さんが沢山あり、この様に魚や野菜を運ぶ姿は朝の一つの風物詩でした。
毎朝藁に包んだ納豆を自転車の荷台の籠に積んで「なっと〜、なっと〜」と言いながらやって来るのも町の風物詩の一つでした。
うなぎのお店・新妻さんの店頭ではぬるぬる滑るうなぎをすばやくまな板に張り付けては、見事な庖丁さばきで開き、パタパタと団扇を叩きながら真っ赤におこった炭火で焼いていました。
子供にとってはいつまで見ていても飽きない光景で、美味しい匂いが町中に流れていました。
薬王寺の入口にあった魚正さんでも同じ様な光景が見られました。ここのお店では金魚も売っていたと思います。
昔は魚屋さんも店頭で見事な庖丁さばきを見せてくれたり、桶屋さん、畳屋さん、経師屋さん、靴屋さん、提灯屋さん等が店先で見事な技を披露していましたので、下校途中に飽きずにそれぞれの技を見るのも楽しみでした。
所沢は沢山の業師「わざし」がいたのです。

幼い頃、姉の背中におぶさり、本宿屋さんの大きなショウ・ウインドウに頭をゴツンと打ちつけられると喜んでいたそうです。
当時から本宿屋さん、山田屋さんらの大きな呉服屋さんには立派なショウウインドウがありました。

秋田新道の入り口(現・吉村家具店さん)には蔵造りの埼玉銀行がありました。おもて通りには多くの蔵造りのお店が建ち並んでいました。
秋田新道の井筒橋を渡ると松の湯という銭湯がありました。高いコンクリートの門があり、湯の暖簾がかかっていました。
時々兄達と入りに行きました。

柏屋さんと佐野屋さんには長いトロッコがあり同級生の家でしたので、良く乗って遊んだこともありました。

 



左の写真は佐野屋さんのトロッコです。






現在は2件とも取り壊されマンションに生まれ変わります。


幼い頃、斎藤紙屋さん(現在:龍貴堂古書店)の隣にあったお店で桐の木を彫ったヒョットコのお面を買ってもらった事が未だに思い出されます。




コンセール・タワーの所にあった柳瀬屋化粧品店前には赤いポストが立っていました。

写真は昭和初期の三・八市の様子です。
右側の商店は現在コンセルタワーになっています。

初冬の川金米店の店先で真っ白い無数の綿虫が舞っていたのを赤いポストと共に何故か今でも鮮明に覚えています。
中学生になり野球部に入部した時に御幸町の盃横丁の入口にあった南原靴店で布製のスパイクを作ってもらいました。
当時は革靴は未だ既製品は少なくオーダーで作ってもらっていました。

寿町の井登喜さんと散髪屋さんの間の路地を入った正面に歌舞伎座(後の中央映画劇場)がありました。
当時は娯楽と言えば映画が一番の楽しみで毎週の様に観に行っていました。

山田呉服店は現在はありませんが、所沢のデパートと呼ばれた大きな呉服屋さんでした。
横の道は山田屋横丁と呼ばれています。
同級生の家でしたので、度々遊びに行っていました。
立派な庭があり、所沢の絵葉書でも紹介されています。

家には電蓄があり、沢山のレコードがありました。

歌舞伎座で映画を観てきた姉達が高峰三枝子等が歌っていた主題歌のレコードを買いに、当時佐野屋さんの隣にあった唯一のレコード店・全盛堂に行くのに、いつもついて行っていました。帰りに元町交差点前にあった伊勢屋さんに立ち寄り「あんみつ」を食べるのが楽しみでした。歌舞伎座の入口には時々屋台の支那ソバ屋(夜鳴きソバ)の屋台が止まっていて寒い夜に姉たちに連れられて食べに行きました。

昭和27年ころから駅前通りから金山町までの商店街まで七夕祭りが開催され各店が競って竹飾りを道一杯に飾り大いに盛り上がったこともありましたが、進駐軍の車らの横行が激しくなり中止になってしまいました。残念ですね。

七夕祭りの様子の写真をご覧下さい。



昔の銀座商店街の写真をご覧下さい。







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